ポール・デュカス

作曲

ポール・デュカスは、生前に多くの自作を破棄したことで知られている。現在では主に、ゲーテの『魔法使いの弟子』に基づく壮麗な《魔法使いの弟子》によって演奏会で親しまれているが、その活動は作曲だけにとどまらず、鋭い洞察力をもつ音楽評論家、そして優れた教育者としてフランス音楽界に大きな影響を与えた。彼の緻密な管弦楽法は、アルノルト・シェーンベルク、アルバン・ベルク、フランツ・シュレーカーといった作曲家たちにも影響を与えた。

1865年にパリで生まれたデュカスは、パリ音楽院でエルネスト・ギローに作曲を学び、クロード・ドビュッシーと同門であった。名誉あるローマ賞を目指したが、1888年のカンタータ《ヴェレダ》で2位、翌年の《セメレ》では9票中わずか3票しか獲得できず、落選が続いたことに失望し、音楽院を去る。その後、兵役に就きつつも独学で作曲を続けた。1892年1月に発表した管弦楽序曲《ポリュークト》で作曲家としてパリ・デビューを果たし、高い評価を受ける。同年には評論活動も開始し、『レヴュ・エブドマデール』誌で音楽批評を執筆するようになる。 オペラ作品は未完に終わるものが多かったが、その間に交響曲ハ長調、《魔法使いの弟子》、ピアノ・ソナタ変ホ短調、そして《ラモーの主題による変奏曲、間奏曲と終曲》など、代表作とされる作品を完成させた。唯一完成させた、モーリス・メーテルリンクの原作によるオペラ《アリアーヌと青ひげ》は、1907年の初演以降、ウィーン、ブリュッセル、ニューヨーク、ミラノ、ブエノスアイレス、マドリードなどで上演され、国際的な成功を収めた。その後もいくつかの大作に取り組んだが、完成したもののうち現在残されているのは、舞踊詩《ラ・ペリ》のみである。《運命の糸》、《新世界》、《メデューズの血》といった作品は、自らの芸術的基準を満たさないとして、デュカス自身の手で破棄された。1908年からはパリ音楽院で教鞭をとり、当初は管弦楽法を、のちには作曲を教えるようになる。最も有名な弟子の一人に、オリヴィエ・メシアンがいる。1935年5月17日、デュカスは心臓発作のためパリで逝去した。

コンサート映像