ヨハネス・ブラームス

作曲

主にダンスホールで演奏していた父を持つ、ハンブルクの小市民階級出身のブラームスが、最高の名声を持つ作曲家の一人になると予想した人はどれだけいただろうか。早い時期にピアニストとピアノ音楽の作曲家として頭角を現したブラームスは、ヴァイオリンのヨーゼフ・ヨアヒムの仲介により、ローベルト・シューマンと出会う。シューマンは当時20歳のブラームスの才能を見抜き、その大成を予言した。

もっとも、「未来の音楽」を標榜したワーグナーには、ブラームスは過去の人に写っていたようだ。実際、ブラームスはバッハやヘンデル、さらにそれ以前の音楽の「再発見」を通して、その視野を広げていった。それにより、後期ロマン派の語法と古典やバロックの音言語を、比類なき形で統合することに成功したのである。ドイツ・レクイエムは大成功を収め、彼は後の住処となったウィーンで、楽譜の出版やピアニスト、指揮者としての出演料により、金銭的な不自由をすることなく生活することができた。ブラームスはベルリン・フィルと複数回にわたって自作で共演している。首席指揮者のビューローとフルトヴェングラーは、ブラームスの作品の上演に強い義務感を感じ、ブラームスとワーグナーの間にあった溝を色あせたものにすることに貢献した。後のカラヤン、アバド、ラトルも、ブラームスの管弦楽作品に集中的に取り組んでいる。

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